『我跳ぶ、ゆえに世界あり(Salto, ergo mundus est.)』序章

序章 ――「跳躍」の哲学的宣言

「我思う、ゆえに我あり」。

デカルトが残したこの言葉は、近代の哲学と科学を貫く礎となった。

思考することこそが存在の根拠である――その鮮烈な宣言は、長い時を経てもなお私たちの心を揺さぶり続けている。

だが、21世紀を生きる私たちは、思考の連続性だけでは語り尽くせない現実に立ち会っている。

知識は加速度的に拡張し、AIは人間を超える速度で推論を重ね、情報は秒単位で世界を更新していく。

その渦中にあって、人間の存在を支えるのは「思考」ではなく、むしろ「跳躍」なのではないか。

跳躍とは何か

跳躍とは、理由や橋を必要としない移動である。

AからBへ、BからCへと一歩ずつ歩むのではなく、Aから一気にZへと飛び越える。

連続的な道筋を無視し、断絶を越えて着地する。

そこには必ず「不確かさ」と「危うさ」が伴う。

けれど、その瞬間にこそ新しい世界が立ち上がる。

思考が「既知の組み合わせ」から答えを導くのに対し、跳躍は「未知の構造」へと扉を開く。

「我跳ぶ、ゆえに世界あり」

この言葉は、ただの逆説や修辞ではない。

世界は与えられた静的なものではなく、跳躍によって初めて現れる。

跳ぶことは存在の賭けであり、同時に存在の証明でもある。

私が跳ぶとき、私の前に世界が立ち上がる。

跳ばなければ、世界はまだ沈黙のままである。

新しい哲学の入口として

この序章は、思考を超えた次の段階――「跳躍」を軸とした哲学の入口に過ぎない。

連続性にとどまるのか、それとも断絶を飛び越えるのか。

その問いは、個人の選択であると同時に、人類全体の未来に関わる選択でもある。

「Salto, ergo mundus est.」

――我跳ぶ、ゆえに世界あり。

この宣言を胸に、論考を進めていこう。

 

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